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城名 | 白鳥城(別名:御服山城、五福山城、呉福山城) | ||
住所 | 〒930-0138 富山県富山市呉羽町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 神保長職 | |||
築城年 | 永禄5年(1562) | |||
主な改修者 | 前田氏 | |||
主な城主 | 神保長職、上杉謙信、佐々成政、前田氏 | |||
位置 | 北緯36度41分51秒 東経137度9分56秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
2 | 天守台 | |||
3 | 二ノ丸 | |||
4 | 三ノ丸 | |||
5 | 本丸下郭 | |||
【歴史】 富山県富山市にあった山城。富山城(富山市)西方の呉羽山(標高145.3m、城山ともよばれる)を中心にした城郭である。城名は東麓に在る白鳥神社(富山市寺町)に由来するが、古くは御服山(五福山、呉福山とも)城と呼ばれた。 本丸跡からは環壕を巡らした弥生時代の高地性集落跡が見つかっており、古くから軍事上の要地であったことが判る。文献上は、寿永2年(1183年)に源義仲の武将・今井四郎兼平が陣を張ったとするのが最初の記録で、その後、越中守護代神保長職が永禄5年(1562)上杉謙信の越中攻めに備えて本格的に築城し、富山城の詰城として利用されたと思われる。 白鳥城は急斜面の東側に対して、西側はゆるやかな傾斜で、防備の弱点となっていた。このため、越後の上杉氏との戦いでは、白鳥城は富山城の詰城としての役割を発揮したが、織田信長勢や羽柴秀吉(豊臣秀吉)勢に西から攻められた際にはいち早く攻略され、逆に富山城攻略のための付け城となってしまった。 謙信の越中攻めで神保氏は降伏し、白鳥城は上杉方の城となったが、元亀3年(1572)、西側から攻め寄せた一向一揆勢により落城したことがある。その後、上杉氏は城を奪還したが、謙信の死後は 富山城を居城とした佐々成政の属城となった。天正12年(1584)、徳川家康・織田信雄と秀吉との間に小牧・長久手の戦いが起こると、成政は家康・信雄に与して秀吉に敵対。このため、越中は秀吉や加賀の前田利家勢に攻められた。 天正13年(1585)の富山城攻めで、白鳥城が秀吉軍の攻略の拠点となったのは前述した通りである。成政が秀吉に降伏すると、白鳥城は前田氏の属城となった。前田氏は同城に城代・城将を入城させ、城の整備を行ったが、江戸時代初めの慶長年間(1596〜1615年)に廃城となる。今日残る城跡の縄張りは、そのころに完成されたものである。 城跡には現在、各郭跡や空堀、井戸跡などの遺構が残っている。 【感想】 ハイキングコースになっているので比較的登りやすい城ではあるが、遊歩道は城の登城道を無視しているためかなり遺構を破壊していると思われる。また、時期が悪く藪化しており、土塁や堀があっても分かりづらかく残念であった。 また先に安田城跡資料館で縄張り図をもらっておくと本来の登場道の記載があるので参考にするとよいでしょう |
登城日 | 2015年7月11日(土) | ||
LINK | 堀切もえの富山の城跡探訪〜白鳥城〜 | |||
Wikipedia〜白鳥城〜 | ||||
城主家紋 | 【竪二つ引両】 (惟宗姓か?) 神保氏家紋 |
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【隅立四つ目結】 (宇多源氏佐々木氏流) 佐々氏家紋 |
※天守台に置かれた「白鳥城址平面図」より |
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【白鳥城址がある呉羽丘陵】 | 【白鳥城址入口】 呉羽丘陵の展望台と隣接するため休日は満車状態。 |
【白鳥城址碑】 この場所は元は池があったそうです。城址碑の後ろに説明が彫られています。 |
【白鳥城東側登城口】 | 【東出丸跡】 | 【遊歩道】 東出丸跡から下ると下は堀状態になっているが藪化しており詳細は不明。 |
【三ノ丸跡】 ここも藪化が進み通れるのは遊歩道のみ。ただこの道は本来の城の登城道とは異なる。 |
【堀切】 三ノ丸と二ノ丸との間。 |
【堀切】 三ノ丸と二ノ丸の間。 |
【二ノ丸跡】 | 【二ノ丸跡】 | 【井戸跡】 二ノ丸の西側に位置し堀の中にある形で土橋の横にある。 |
【井戸跡】 | 【井戸跡と土橋】 土橋を渡り階段を登ると本丸になる。 |
【本丸跡にある説明板】 |
【本丸からの眺望】 この時期だからなのか草が生い茂り視界は良くない。 |
【本丸跡】 | 【本丸跡と天守台】 正方形状の本丸の中に後世盛られた天守台があるが今は周囲を草が生い茂っている。 |
【天守台】 ここは後世に盛られたそうです。 |
【本丸下郭(本丸外郭)】 | 【本丸下郭の横堀】 本丸の周りはこのように横堀で囲まれていたようです。 |
【本丸下郭の下の郭(東曲輪か?)】 この場所には何も表記がされていなかった。ここから帯曲輪のような通路があり二ノ丸と繋がっている。 |
【東曲輪北側下の郭(北郭か?)】 サイクリングロードまで出るとこの場所に入れると思われる門扉があるが関係者意外立入禁止となっていた。 |
【東曲輪から二ノ丸へと繋がる通路(帯曲輪)】 |
【二ノ丸へと繋がる通路と横堀】 ここを抜けると二ノ丸に出る。 |
【本丸下郭北側の通路】 堀切がありその上に橋が架かっている。この先は北二の丸となる。 |
【堀切】 橋の下を見ると下にサイクリングロードが見える。 |
【北二ノ丸跡】 | 【西一ノ丸跡】 | 【西一ノ丸下の郭】 形状はL形で広い。この先に進むと西一ノ丸へ繋がる。 |
【西一ノ郭と二ノ郭の間を横に入るとある郭】 | 【西二ノ丸跡】 | 【堀切】 |
【堀切から繋がる横堀】 この左側の藪が西二ノ丸を囲う様に横堀がある。 |
【西出丸跡】 | 【西側登城口】 |
【白鳥城西側の緩やかな斜面】 確かに東側は急峻であるが、西側は緩やかな斜面が続く。こちらから攻められたら一気に上まで上がられてしまうだろう。 |
【白鳥神社】※白鳥城東側県道59号線沿いにある 呉羽丘陵(城山)の最高峰の麓にこの神社があったことから白鳥城の名前の由来にもなっている。 |
【白鳥神社社殿】 |
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【朝日将軍木曽義仲公宿営地金屋西館跡】 ※白鳥城東側県道59号線沿いにある |
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