城名 戸倉城(別名:徳倉城)
住所 〒411-0917
静岡県駿東郡清水町下徳倉
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 北条氏綱
築城年 天文年間(1532〜1554)
主な改修者
主な城主 北条氏、笠原新六郎、武田氏
位置 北緯35度5分43秒
東経138度53分55秒
地図 主曲輪
袖郭
東曲輪
西曲輪
堀切
【沿革】
戸倉城は戦国時代北条氏綱(1486〜1541)が築いたという。主曲輪は本城山の頂上にあって、東西40m、南北30mの平場で、もとは土塁がめぐっていたという。東側に一段下がって袖郭があり空堀で仕切られる。南側には見張台の役目をはたした天狗岩がある。東曲輪は東方にのびる尾根上にあり、左右から切り込んだ三本の空堀によって、屈折した平場をつくる。先端の南東斜面には三段の平場と、反対の北東斜面には空堀切と二段の平場と最下段には裾郭がある。

また主曲輪から北西に下る斜面には空堀を左右からくい込ませた小郭が連続してつくられ最下段左手より狩野川へ向って空堀があった。大手登り口は龍泉寺山門左手にあって、数段の平場を経て右に曲がり主曲輪に至るが、その中ほど左右に空堀と土橋がある。西曲輪は本城山西端下で空堀切によって区切られる。それにより左右に九本の竪空掘と陵部に小郭が八幡神社裏まで連続している。八幡神社西側の県道を越えて摩利支天があり、ここから烏帽子岳太鼓櫓まで、空掘切と平場が尾根上にある。外原出口にも小郭があった。城主の居館は龍泉寺内であったという。

永禄11年(1568)から元亀2年(1571)にかけて駿河に攻め込んだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦った。また天正8年(1580)、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻撃した。北条方の城将笠原新六郎はよく城を守ったが、天正9年(1581)、武田方に寝返えって城は武田氏のものとなった。天正10年(1582)、武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城、山中城へ撤退したため廃城になったと伝えられています。

また、本城山と狩野川にはさまれた地域は、弥生時代(今から2000〜1800年前)にかけてかなり大きな集落があったと考えられる矢崎遺跡があり、東日本としては珍しい、青銅の釧(くしろ。腕輪)をはじめとする多量の遺物が出土しています。
(説明板より)

【感想】
説明板にはいろいろ城址の形状について書かれているがはっきり言って遺構は皆無である。城の周囲は宅地化されており、城山は公園化され改変が著しい、西曲輪方面は藪で入ることは難しい。
主曲輪からの眺望は最高で晴れていれば富士山も望めるでしょう。柿田川方向をたどれば泉頭城も確認できます。



登城日 2015年7月18日(土)
LINK 清水町観光協会-戸倉城-
戸倉城(伊豆国)-Wikipedia-
城主家紋 【三つ鱗】
(伊勢平氏流)
後北条氏家紋
【割菱】
(清和源氏義光流)
甲斐武田氏家紋

                      

探訪

※駿河戸倉城復原図より
【戸倉城址全景】 【居館跡】
龍泉寺内に居館はあった。
【東側登城口へ】
右側の道を川沿いに向かうと登城口があります。
【狩野川沿いの道】 【東側登城口】 【分岐】
正面の道へ進むと北側登城口にでる。
【主曲輪跡】
周囲には土塁があったそうだが、今はその遺構もない。
キノコ型の展望台が置かれている。
【説明板】 【袖郭】
主曲輪の東部の一段低くなった場所。当時は空堀で区切られていたそうです。
【展望台北東方向の眺望】
狩野川と柿田川の合流点で、周囲を川により囲まれていることがよく分かる。
【東曲輪北側の崖】 【堀切】
東西の曲輪を分ける空掘。
【北側登城口にある金毘羅神社】 【北側登城口】 【北側登城口】
こちらは整備もされて無く藪となっている。この先進むと住宅街に出る。




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