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城名 | 長浜城 | ||
住所 | 〒410-0224 静岡県沼津市内浦長浜 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 海城(梯郭式平山城) | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 後北条氏 | |||
築城年 | 天正7年(1579) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 梶原景宗 | |||
位置 | 北緯35度1分5.4秒 東経138度53分16.5秒 |
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地図 | 1 | 一曲輪 | ||
2 | 二曲輪 | |||
3 | 三曲輪 | |||
4 | 四曲輪 | |||
5 | 腰曲輪 | |||
【歴史】 長浜城は、戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城で後北条氏5代北条氏直時代に今川義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対して天正7年(1579)に伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた北条水軍根拠地の一つとして長浜城が築城され北条水軍責任者として梶原備前守が置かれた。翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われたが、戦いの結果は必ずしも明らかになっていないが武田氏が織田信長に滅ぼされることで、一応の決着を見ることになった。 その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。その際、最終的に長浜城を守ったのはこの地の土豪 大川兵庫を中心とする地元住民でした。 【構造と見所】 戦国時代のずい軍の拠点多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城で、海側と陸側で見所が異なります。 海側には、最も高いところにある一曲輪を中心に、海と山に向って曲輪がL字の様に配置されているなど、北条氏の城の特徴をいることが出来ます。 一方、陸側には、敵の侵入に備えて、山城の特徴である多数の土塁や、空掘、尾根を切断するようにつくられた堀切も見ることが出来ます。 【感想】 沼津駅からバスで約48分、城下橋バス停で下車すると目の前に城址があります。バス停から開けた公園部分から登場するよりも、港側に周って弁天社の鳥居がある側から登城した方が四曲輪から順に見ることが出来る。城址はよく整備され通路も組まれているので非常に見やすいです。天気が良ければ富士山も見ることが出来ますが、訪れた時は台風の影響で富士山側が雲に覆われており見ることが出来ませんでした。 城の三方は海に囲まれているため、現在もヨットが繋留されているので昔もここに安宅船等が繋留されていた事を想像しやすいです。 |
登城日 | 2015年7月12日(日) | ||
LINK | 沼津市HP-長浜城- | |||
Wikipedia〜長浜城〜 | ||||
城主家紋 | 【三つ鱗】 (伊勢平氏流) 後北条氏家紋 |
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【丸の内石畳】 (桓武平氏鎌倉氏流) 梶原氏家紋 |
※長浜城 縄張り図 |
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【長浜城跡案内板などの展示スペース】 左手はトイレになっています。 |
【長浜城址碑と登城口】 城址碑の左隣りには昔の登城口弁天社の鳥居がありますが藪状態でした。 |
【四曲輪跡と堀切】 四曲輪は小規模の曲輪ですが尾根伝いに登ってこようとする敵を撃退する役目を担っていました。三曲輪よりも8mほど低い位置にあります。 |
【堀切と跳ね橋と虎口跡】 築城当時は三曲輪と二曲輪との間に堀切が作られ、ここに跳ね橋が設けられていた。その後この堀切は埋められ、幅を狭くして虎口に改造されました。 |
【弁天社】 三曲輪に位置する。現在三曲輪は二段になっているがこちらの低い方も高い側と同じ高さまであったようです。 |
【三曲輪跡】 土塁のように見えますが、こちらが本来の曲輪の高さになります。 |
【三曲輪跡】 重須側(写真左手側)にのみ土塁が築かれています。 |
【堀切と跳ね橋と虎口跡】 | 【現在の二曲輪虎口】 |
【三曲輪跡】 | 【二曲輪土塁】 こちらも重須側のみに土塁が築かれている。 |
【二曲輪跡】 |
【二曲輪・掘立柱建物跡】 二曲輪は長浜城の中で最も広い平面で、発掘調査によって180基ほどの穴が発見され、ここに掘立柱の建物が建っていました。 |
【二曲輪土塁】 | 【二曲輪堀跡】 この堀は重須側の斜面に築かれた竪堀に直接繋がっているものと思われましたが、発掘により2つの堀の接続部には畝状の掘り残しがあったことが分かり。斜面に設けられた竪堀を登ってきた敵は、仕切りに阻まれてこの堀に入ることが出来ず、二曲輪には容易に侵入できない仕組みになっています。 |
【竪堀跡】 | 【二曲輪・櫓(推定)】 この建物跡は、海側を見張る役割と一曲輪と二曲輪を連結する登り口の役割の両方を兼ね備えていた「櫓」であったと推定されます。南側の堀と組合せて用いられ、一曲輪に攻め込もうとする敵を防ぐ役目を果たしていたのでしょう。 |
【二曲輪・櫓(推定)】 |
【二曲輪跡】 | 【一曲輪跡】 重須側と北側にL字型土塁が築かれている。 |
【塀跡】 L字型の塀があり外部から見えないよう区切られた空間があり門により出入りしていたようです。 |
【一曲輪からの眺望】 敵方(武田)の三枚橋城を望むことが出来る。 |
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【腰曲輪】 | 【腰曲輪A】 | 【腰曲輪B】 |
【腰曲輪C】 | 【腰曲輪Cより見た一曲輪方向】 | 【腰曲輪C】 |
【内浦湾】 腰曲輪Dから磯部まで降りることが出来ます。現在はヨットハーバーになっています。当時はここに安宅船などが係留されていたのでしょう。 |
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【腰曲輪したの磯辺】 この上に腰曲輪が連なる。 |
【内浦湾】 | 【内浦湾】 |
【安宅船原寸大模型】 | 【安宅船原寸大模型】 | 【一曲輪下の石垣?】 これは説明板もないので当時のものでは無いのであろう。 |
【竪堀跡】 二曲輪と一曲輪の間の斜面に位置する。 |
【城址南西側斜面】 ガイダンス広場より。 |
【発掘調査で見つかった石積み】 実物はここより2m下に現地保存されている。 |
【ガイダンス広場に置かれた安宅船原寸大模型跡】 | 【安宅船説明板】 | 【田久留和跡】 |