城名 霧山城(別名:多気城、霧山御所)
住所 〒515-3421
三重県津市美杉町八知
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡(多気北畠氏城館として)
城郭構造 山城
天守構造
築城主 北畠顕能
築城年 興国3年(1342)
主な改修者
主な城主 北畠氏
位置 北緯34度31分23.5秒
東経136度17分21.7秒
【概要】
三重県津市(旧一志郡美杉村)にあった山城。国指定史跡。

南北朝時代には伊勢の国司、戦国時代には南伊勢を勢力圏とする戦国大名となった北畠氏の居城。

伊勢奥津駅(JR名松線)から東へ約5kmにある北畠顕能(伊勢北畠家初代。霧山城の築城者でもある。)を祀る北畠神社の裏山(標高約600m、比高約240m)の山頂付近に築かれていた城である。

麓の現在北畠神社の境内となっている場所に、北畠氏の平時の居館(多芸(たげ)御所、霧山御所とも)があり、この居館の背後の山上の尾根の先端部に詰の城が築かれ、その先の尾根沿いの山頂に霧山城があった。この北畠氏館(多芸御所)・詰の城・霧山城の3城を含めて多気城ともよばれる。

建武3年・延元1年(1336)、後醍醐天皇が吉野遷幸をして南朝を立てたころに、北畠親房が南伊勢に入り、田丸城(度会郡玉城町)を築き拠点にした。康永1年・興国3年(1342)、田丸城は北朝方に攻められ、北畠顕能はこの地に逃れた。このとき、顕能が新たに居館として築いたのが霧山城である。

以後、畠山氏は霧山城を含む多気城を拠点として、伊勢北畠氏第8代の具教に至るまで多南伊勢5郡および伊賀国、大和国の宇陀郡を治めた。永禄12年(1569)、城主の北畠具教は、本拠を大河内城(松阪市)に移して尾張の織田信長に対抗した。その後、信長の侵攻を受け、具教は信長の次男信雄を養子(北畠家の嫡子)とすることで和睦した。

しかし、天正4年(1576)、信雄は義父・具教を三瀬館(多気郡大台町、三瀬御所とも)で暗殺した。具教が殺害されたことを知った北畠氏の旧家臣は、一門の北畠政成が城主をつとめていた霧山城に続々と集結した。その数は1千余といわれている。同年12月2日、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)・神戸(織田)信孝・関盛信ら織田軍1万5000が霧山城に総攻撃を行ったといわれている。

北畠の旧臣は奮戦したが、城主・政成はじめ多くの将兵が討ち死にして落城。その後、廃城となった。

山頂付近には霧山城の土塁、堀切などの遺構が残っているほか、城があったことを記した碑が建っている。
(「日本の城がわかる事典について」より)

【感想】
北畠氏館跡詰城まで登ったらそこから先の霧山城へ。
延々と続く杉林、そして階段、歩幅が合わない階段は疲れるので脇にずれて登って行く。
何か所か分岐点はあるものの案内がしっかりあるので迷うことはありません。
約40分で鐘突堂跡へとたどり着く。しかし、本丸まではまだ距離があります。山上は矢倉跡、本丸跡、米蔵跡から成り立ち、本丸跡は土塁に囲まれすり鉢状に見えます。
ここまで登った甲斐がありました。


登城日 2019年7月14日(日)
LINK 霧山城-Wikipedia
城主家紋 【笹竜胆】
(村上源氏久我氏流)
北畠氏家紋

                      

探訪

※案内板より(加筆有り)
【北畠館跡詰城からの登城道】 【北畠館跡詰城からの登城道】 【北畠館跡詰城からの登城道】
尾根伝いに延々とこんな階段などが続きます。
【鐘突堂跡との分岐点】
ここからが城域となる。
【鐘突堂跡へ続く城道】 【鐘突堂跡】
【鐘突堂跡碑】 【鐘突堂跡からの眺望】
標高562m地点からの眺め
【鐘突堂跡の下の曲輪】
【鐘突堂跡】 【本丸方向へ続く城道】 【本丸方向へ続く城道】
【本丸方向へ続く城道】 【本丸へ続く城道】 【虎口】
【本丸跡と矢倉跡間の堀切】
堀切が虎口になっている。
【矢倉跡】 【矢倉跡】
【矢倉跡から見た本丸跡】 【矢倉跡北側】
堀切がありこの先は比津峠へと続いている。
【矢倉跡北側堀切】
【本丸虎口】 【本丸虎口】 【本丸跡の城址碑】
【本丸跡】 【本丸跡】
周囲は土塁に囲まれすり鉢状に見えます。
【本丸跡の城址碑】
【本丸跡の説明の碑】 【米蔵跡】 【米蔵跡から見た本丸方向】




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