城名 松ヶ島城
住所 〒515-2133
三重県松阪市松ヶ島町
入場時間
入場料
指定文化財 三重県指定史跡
城郭構造 平城
天守構造 5層天守
築城主 織田信雄
築城年 天正8年(1580)
主な改修者
主な城主 織田信雄、津川義冬、滝川雄利、蒲生氏郷
位置 北緯34度36分19.1秒
東経136度31分56.8秒
【概要】
三重県松阪市にあった平城。三重県指定文化財。伊勢湾に面した伊勢神宮への参宮古道沿いにあった城である。

もともとは北畠具教が永禄10年(1567)、織田信長の来襲に備えて築いた城である。当時は細首城とよばれていた。具教は日置大膳亮を入城させ、織田氏に備えた。

永禄12年(1569)、織田の大軍が松ヶ島城に押し寄せ、大膳亮は細首城を焼いて大河内城(松阪市)に篭城した。その後、具教は信長の提示した条件(信長次男の織田信雄を養子とすること)を承諾して和睦した。北畠氏の家督を継いだ信雄は、田丸城を改築して居城としたが、天正8年(1580)に田丸城は焼失、このため、信雄は細首城を整備して5層の天守を築き、名前を松ヶ島城と改めて居城とした。

天正10年(1582)、信長が本能寺の変で死去すると、信雄は清洲城に移ったため、松ヶ島城には家臣の津川玄蕃允義冬、滝川雄利が入城した。信雄が羽柴秀吉と対立したため、松ヶ島城は天正12年(1584)に秀吉勢の猛攻により落城した。

その後、松ヶ島城には秀吉臣下の蒲生氏郷が入封した。氏郷は松ヶ島城を南勢(伊勢国南部)統治の拠点としたが、城下が手狭だったため、天正16年(1588)に松阪城を築き、松ヶ島城下の町民を松阪城下へ強制的に移住させた。それにともない、松ヶ島城と城下町は廃された。

現在、城跡には遺構はほとんど残っていない。農地の中の木々がこんもりと茂る丘になっているが、その丘の頂上に幅約20m、高さ約2mの台地がある。これがかつての天守台跡で、5層の天守が築かれていた場所である。その地中からは瓦片や茶碗片が出土した。
近鉄山田線松ヶ崎駅から徒歩約15分。
(「日本の城がわかる事典について」より)

【感想】
近鉄松ヶ崎駅からほぼ一本道で城跡近くまで行けます。そこから先は多分民地なのでしょうビニールハウスや田畑の間の道を進むんで行くと小高い丘が見えて・・・
時期によってなのでしょうか、城跡の前に肥料の山ができ、この丘がほぼ隠れてしまっているという状態。
史跡ギリギリまで肥料の山がきています。あまりにも扱いがひどいです。



登城日 2019年7月15日(月)
LINK 松ヶ島城-Wikipedia
城主家紋 【木瓜】
(平氏の子孫か?)
織田家家紋
【対い鶴】
(藤原氏秀郷流)
蒲生氏家紋

                      

探訪
【松ヶ島城址碑と説明板】 【天守台跡とされる丘】 【天守台跡】
【天守台跡】 【天守台跡から見た風景】 【天守台跡】
【説明板】 【民地の農道から見た城跡】
肥料の丘でほとんど隠れてしまっている。




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