城名 | 刈谷城(別名:刈屋城、亀城) | |||
住所 | 〒448-0833 愛知県刈谷市城町1 亀城公園内 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 水野忠政 | |||
築城年 | 天文2年(1533) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 水野氏 | |||
位置 | 北緯34度59分21.7秒 東経136度59分6.8秒 |
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【概要】 愛知県刈谷市にあった平城。 正しくは「刈屋城」である(刈谷の表記は、1950年の市制施行時に表記が改められたことによる)。 同市内の衣ヶ浦とよばれる入江の北端に築かれていた。天文2年(1533)に水野忠政が築城し、忠政は同城を新たな居城に定めて、本拠地を緒川城(知多郡東浦町)から移した(これについては異説もある)。 徳川家康の生母於大は忠政の娘で、刈谷城から岡崎城(岡崎市)の松平広忠(家康の父)に嫁した。忠政の死後、家督を継いだ信元(於大の兄)は今川氏を離れて織田方についたため、於大は松平家から離縁されている。 刈谷城主の信元は天正3年(1575)、信長家臣・佐久間信盛の讒言により武田氏との内通を疑われ、信長の命により岡崎の大樹寺で家康に殺害された。代わって信盛が城主となったが、信長は天正8年(1580)、信盛を追放し、水野忠重(信元・於大の弟)に刈谷城を返還した。その後、忠重は豊臣秀吉の命により伊勢の神戸城に移封されたが、文禄3年(1594)に再び刈谷城主に返り咲いている。 慶長5年(1600年)、忠重の子・水野勝成は刈谷3万石の藩主となり刈谷城を居城として、西尾藩の初代藩主となった。その後、勝成は大和郡山へ転封となり、寛永9年(1632)に三河吉田城に移封されるので勝成の弟・忠清が刈谷藩主(城主)となった。その後、深溝松平氏、久松松平氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏の譜代大名を経て、延享4年(1747)に三河西尾城主だった土井利信が入城し、土井氏が9代続いて明治維新に至った。 明治4年(1871)の廃藩置県とともに刈谷藩は廃され、刈谷城は廃城となった。 現在、刈谷城の本丸跡が亀城公園として整備され、本丸を囲む土塁や水堀の一部が残っている。 (「日本の城がわかる事典について」より) 【感想】 遺構は少ないが堀が残り、城らしく感じることは出来る。 公園化しているため本丸の改変も著しい、近年本丸の復元事業が進んでいるようで、どうなるかが楽しみではある。 |
登城日 | 2019年9月14日(土) | ||
LINK | 刈谷市HP-刈谷城を知る | |||
刈屋城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【立ち沢瀉に水】 (清和源氏満政流浦野氏族) 水野氏家紋 |
【中堀】 左側の岸が二ノ丸跡、右側は二ノ丸(帯曲輪)と本丸跡 |
【中堀】 | 【通路】 |
【熊村口堀】 奥に見えるのは、熊村口になる。 |
【二ノ丸(帯曲輪)跡】 | 【本丸跡】 |
【本丸跡碑と説明板】 | 【刈谷城碑】 | 【本丸土塁】 |
【本丸土塁上】 | 【本丸土塁を切った通路】 これは後世に切られたものだろう。 |
【十朋荘(戌亥櫓跡)】 説明板にはここに三層の櫓が建っていたとあるが刈谷市HPの方には二層の櫓とある。 |