城名 疋壇城(別名:塩山城(えんやまじょう))
住所 〒9140302
福井県敦賀市疋壇
入場時間
入場料
指定文化財 福井県指定史跡
城郭構造 山城
天守構造
築城主 疋壇対馬守久保
築城年 文明年間(1469〜1487)
主な改修者
主な城主 疋壇氏氏
位置 北緯35度35分59.4秒
東経136度05分59.2秒
【概要】
疋壇城は、文明年間(室町時代 1469〜1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保によって築かれた。

疋田の地は、柳ヶ瀬越・塩津越・梅津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通・軍事上の要衝であり、越前の最南端における防御拠点としての役割を果たした。また、古文書からは、本城の東・南・西の三方にそれぞれ出城が設けられていたこともうかがわれる。

元亀元年(1570)の織田信長による越前攻めの際に、天筒山城・金ヶ崎城と共に疋壇城も落城した。信長軍が撤収した後に一旦は修復されたらしく、朝倉氏の栂野右衛門尉景仍(とがのうえもんいかげよる)らが布陣した。

しかし、天正元年(1573)8月に再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、城も破却された。

それからここに400有余年、今も石塁や壕跡が名残をとどめ、周辺にのこる城郭関連の小字名と共に往時を物語っている。
(説明板より)

【感想】
本丸南側は小学校が建てられていたため遺構は消失てはいるが、本丸周辺の堀、特に東側は良く遺構が残っており、石垣が見ることができる。
本丸は畑になっているため改変もあると思われるため、北東部の石垣が畑にした時のものか現存のものかは不明。
全体的には改変もあるだろうが、滋賀と福井の県境にあるため信長の朝倉攻めの際にはここが一番先に落されたのだろう。


登城日 2019年10月20日(日)
LINK 疋壇城-Wikipedia
城主家紋

                      

探訪

※疋壇城遺跡図より(加筆有り)
【疋壇城南側より】
この更地に南城(曲輪)があったが西愛発小学校が建てられ遺構は消失している。
【西愛発小学校跡碑】 【疋壇城址碑と説明板】
【本丸(畑)入口】 【入り口部分の石垣】 【本丸跡】
【天守台石垣】 【天守台隅石】 【天守台】
【天守台石段】 【天守台上】 【城址碑】
天守台上から本丸跡を見ると西側に石塁がある。
【城址碑】 【天守台から見た城南側】 【天守台】
天守台部分は二段になっている。
【本丸西側の石塁】
石塁も二段になっている。
【本丸跡】 【本丸後から見た天守台】
【本丸北側堀跡】 【天守台横の通路】 【本丸へ登る通路】
ポストには疋壇城の説明資料があります。
【本丸西側堀跡】 【本丸北東部石垣】 【本丸北東部石垣隅石】
【本丸北側堀跡】 【本丸東側堀跡と本丸石垣】 【本丸東側堀跡】
【本丸東側石垣】 【本丸東側石垣】 【本丸東側堀跡】
【本丸東側石垣】 【本丸東側石垣】 【本丸南側堀跡】
本来であれば正面は土橋だったと思われる。




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