城名 大聖寺城(別名:錦城)
住所 〒9140302
石川県加賀市大聖寺
入場時間
入場料
指定文化財 加賀市指定史跡
城郭構造 連郭式平山城
天守構造
築城主 狩野氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 柴田勝家
主な城主 狩野氏、一向一揆、朝倉氏、堀江景実
佐久間盛政、溝口秀勝、山口宗永、前田氏、簗田氏
位置 北緯36度18分17.1秒
東経136度18分32.5秒
【概要】
錦城山(標高約70m。古城山とも)に築かれた城である。鎌倉時代に狩野氏が築き、その後居城としたといわれる。南北朝時代以降、たびたび記録に登場する城で、戦国時代に入ると加賀一向一揆の拠点のひとつになった。

天文24年(1555)に、越前の朝倉宗滴が加賀に侵攻して一揆勢と戦い、周辺の諸城とともに大聖寺城を陥落させた。

その後、同城は朝倉氏に属したが、永禄10年(1567)に一向一揆とともに堀江景忠が朝倉義景に反旗を翻して戦乱になった際、足利義昭の斡旋で和解が成立したが、その条件として城は焼き払われた。

天正3年(1575)に浅井氏、朝倉氏を滅ぼした織田信長は加賀にも侵攻して江沼郡・能美郡を占領した。その際、信長は柴田勝家に日谷城とともに大聖寺城を修復することを命じた。翌年、勝家が江沼・能美両郡で起こった一揆を鎮圧した際、大聖寺城には勝家与力の佐久間盛政、次いで拝郷家嘉が城主として入城。越後の上杉氏の南下に備えて、城の修復を行った。

信長死後の天正11年(1583)、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れ自刃した。その後、大聖寺城は北ノ庄城に入った丹羽長秀の属城となり、長秀与力の溝口秀勝が入城した。秀勝は長秀没後、堀秀治の与力になり、秀治が越後の春日山城に移ると、秀勝も新発田に転封となった。これに伴い、大聖寺城には小早川秀秋家臣の山口宗永が入城した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで宗永は西軍に与したことから、東軍方の前田利長の攻撃を受け、大聖寺城は同年8月に落城し、宗永は自刃した。その後は前田家の家臣が城代をつとめたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

寛永16年(1639)、前田利治は金沢藩から7万石を分けられて大聖寺藩を立てた。
その際、大聖寺城のあった錦城山のふもとに大聖寺陣屋を設け、藩庁とした。藩主の大聖寺前田氏は14代続いて明治を迎えた。このとき、藩主の大聖寺前田氏は城山(錦城山)への立ち入りを禁止していた。このため、全山に配置されていた本丸・二の丸・三の丸等の曲輪の遺構が良好な状態で残ることになった。

現在、城跡は錦城山公園として整備されており、園内には、小堀遠州の設計といわれ、国の重要文化財に指定されている茶室長流亭がある。この長流亭は唯一現存する大聖寺城の建物の遺構である。なお、山麓の公園と加賀聖城高校・錦城小学校にかけての一帯が、江戸時代の藩主・大聖寺前田氏の陣屋跡である。

JR北陸本線大聖寺駅からバスで加賀市民病院前下車。または同駅から徒歩約25分
(「日本の城がわかる事典」より)

【感想】
大聖寺城と言えば加賀一向一揆の拠点の一つで有名だが、その頃の遺構は数少なく、信長侵攻後の改修による遺構になっている。改修後三ノ丸、西ノ丸は本丸と大規模な横堀で分断されており、この横堀が見事に残っている。
本丸の虎口は大分形状がわかりにくくなっているのが残念。


登城日 2019年10月20日(日)
LINK 大聖寺城-Wikipedia
城主家紋 【蛇の目】
(藤原利仁流斎藤氏族)
堀氏家紋
【三つ引両】
(桓武平氏三浦氏流)
佐久間氏家紋
【掻摺菱】
(清和源氏武田氏流)
溝口氏家紋

                      

探訪

※「大聖寺跡ーその縄張等現況調査報告書ー」より(加筆有り)
【東側より見た城北側部分】 【錦城山公園入口】 【大聖寺陣屋跡】
【登城口にあるポストと説明板】
ポストの中にパンフレットが入っているので手に取って登城すると効率よく回れます。
【大手道】 【贋偽金造りの洞穴】
明治元年明治政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩はこの洞穴の中で贋金を製造していました。
【贋金造りの洞穴】
現在は狭く、とてもここで造っていたかのようには思えません。
【大手道】 【大手道】
【本丸と鐘ヶ丸の分岐】 【本丸へと続く大手道】 【腰曲輪】
【@馬出曲輪跡】
本丸から続く尾根の東端に位置するほぼ正方形の曲輪で、南側の一段下がった部分に枡形虎口が造成され、防衛上最も強固な構造となっていた。通路は当曲輪を通り直角に進行方向を変えて本丸下の曲輪に通じた。この様な曲輪と城道の屈曲した出入り口を馬出しと呼び、近世城郭が到達した最も効果的な出入り口の形態である。対面所側に低い石垣が残っており、大聖寺城内で石垣が用いられているのは、本丸櫓台とここだけであり、いかに重要視されていたかが分かる。
【@馬出曲輪跡】 【A本丸南虎口】
【A本丸南虎口】
本丸正門で馬出曲輪への出入り口。裏門に当たる北東虎口が防備を主とした形式であったのに対して、この虎口は二折れの坂土橋の造りで防備と攻撃を兼ね備えた構造となっている。坂土橋の上には正門にふさわしい厳重な門と石垣を積んだ土塁が築かれていた事が発掘調査で確認された。
【A本丸南虎口】 【本丸にある四阿】
【B本丸跡】 【B本丸跡】 【本丸土塁】
【山口玄蕃頭宗永公之碑】 【C本丸櫓台跡】
発掘調査により、東・南面に石垣が確認されたが、建物基礎の痕跡が残っていなかったが、平面積の広さから福井県の丸岡城天守より一回り大きな天守相当の櫓が建っていたと推定される。また、南北に付属部分があることから、付櫓を伴った複雑な構造の建物であった可能性が高い。
【櫓台跡上】
標高65m地点
【櫓台跡から見た土塁】 【D本丸北東虎口】
本丸の裏門で二ノ丸側への出入口。虎口は上下二段に枡形の方形空間を重ねており、防御を重視した構造となっている。上段は枡形にはL字型の土塁を設け、太い柱を用いた建物が建てられていたことが、発掘調査で出土した柱穴跡から確認された。下段の枡形にも厳重な門があったと推定される。
【本丸下の分岐】
左側が馬洗い池、正面二ノ丸、右手は対面所跡方面
【E馬洗い池】
本丸・二ノ丸・西ノ丸に囲まれた場所で、北東部を堰止め周囲と底を掘窪めて造られた人工池で、岩盤を掘削するなどかなり大規模な工事を行っている。山頂に近い高い位置にありながら、かつては夏でも水が涸れることがなかったと言われ、籠城に備えた飲料水を確保する目的で造られたと考えられる。
【E馬洗い池】 【F二ノ丸跡】
大聖寺城内最大の曲輪で台所屋敷ともいわれた。南側以外をほぼ方形に区画して土塁を設け、斜面下に空堀を巡らせている。本丸側と戸次丸側に虎口があり、本丸側虎口は本丸北東虎口下段と、渡り廊下でつながっていた可能性がある。戸次丸側虎口は空堀南東端に多折れの枡形を設け厳重に防備されていた。
【F二ノ丸跡】 【二ノ丸土塁】 【F二ノ丸跡】
【戸次丸指標】 【G戸次丸跡】 【G戸次丸跡】
大聖寺城の北東部に位置し、織田軍が一向一揆勢を撃退した際、最初に築いた曲輪である。戸次右近広正が築いたことから名が付いたとされるが、織田家中の戸次氏は「へつぎ」と読み「べっき」とは言わないため伝承に何らかの混同があったものと考えられる。
【H三ノ丸(北ノ丸)跡】
大聖寺状の北部に位置し、織田軍による改修後は横堀で二ノ丸から分断され、城外とされた尾根である。その為、北東に延びた部分には一向一揆時代に築かれた削平段などの遺構が残されている。
南端には二ノ丸から戸次丸へ通じる多折れの枡形虎口があり、横堀は堀底道となっていた。
【三ノ丸跡の削平段】 【E馬洗い池】
【E馬洗い池】 【I西ノ丸跡】
大聖寺城の北西部に位置する郭で元は本丸から続く尾根であったが馬洗い池から西に掘られた大規模な横堀で本丸と分断されている。横堀構築後は城外的な場所となったため曲輪内には傾斜が残り東に延びた尾根には一向一揆時代に造られた削平段が認められるなど織田軍入部に伴う築城、改修以前の戦国期の古い遺構が多く残っている。
【本丸と西ノ丸の間の横堀】
【本丸と西ノ丸の間の横堀】 【J局谷】
本丸と鐘ヶ丸の間にあり、元々あった自然の谷を人工的に堀割って造られた横堀の一部である名前の由来は大聖寺城が落城した際、城主に仕えていた局達が本丸から身を投げて亡くなったからと言われているその為、局達の霊が蛇となり簪を挿した蛇が住むと言われた。
【鐘ヶ丸へと続く城道】
【鐘ヶ丸土塁上】 【K骨が谷】
鐘ヶ丸の西側から北に延びた谷で、西側にある津葉城跡とは人工的かつ大規模に掘割って分断している。名前の由来は、前田利長軍が大聖寺城を攻めた際、大手の守りが固かったことから裏側の鐘ヶ丸を攻めこの戦いで最大の激戦となり、戦後も多くの将兵の遺体が骨になるまで放置されていたからだと言われている。
【K骨が谷】
【L鐘ヶ丸跡】
大聖寺城の南西部に位置する比較的大きな曲輪で、大聖寺の鐘突き堂があったことが名前の由来と岩有れているが、曲輪の南西部の隅が直角に曲がっていることから、これを表す曲が語源とも考えられる古い文献に「鐘ヶ丸砦」と表記したものがあり、出城的な存在であった可能性もある。慶長5年(1600年)前田軍との攻防戦では最大の激戦地となった。
【鐘ヶ丸の土塁】 【M番所屋敷跡】
鐘ヶ丸東下段にある長方形の小規模な曲輪だが、縁辺に土塁は存在しない
近世に作成された絵図には「番処ヤシキ」と記されている。当曲輪下段の小曲輪の通行者を監視する番所があったと考えられていた様であるが、建造物の遺構は確認できていない。
【番所屋敷と下馬屋敷間の南側城道】 【N下馬屋敷跡】
鐘ヶ丸東方下段に位置し、近世絵図に「番処ヤシキ」と記される曲輪の下段の三角形状の小曲輪で絵図には「下馬屋シキ
と記されているが建造物の遺構は確認出来ていない。但し北側は大手道が本丸方面と鐘ヶ丸方面に分かれる場所で本丸へ通じる通路の枡形虎口と接しており、この曲輪部分が本丸以前で最も重要な分岐点であったと考えられる。
【下馬屋敷と東丸間の城道】
【O東丸跡】
大聖寺城の南東部に位置し、鐘ヶ丸から東に延びる尾根の先端部にある曲輪で、大手道の谷を防御する最も重要な曲輪であった。南側と東側は急峻な斜面で天然の要害となっている。
【東丸の土塁】 【P対面所跡】
大聖寺城のほぼ中央に位置し、二ノ丸と馬出曲輪に挟まれた城内最大の広さを誇る谷である。二ノ丸下の岩盤斜面を削って面積を広げるなど大規模な造成が行われており城主などの居館があったと推定されており、最も広い中段部の一部で発掘調査が行われ建物の礎石が確認されている。




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