城名 末森城(別名:末盛城)
住所 〒464-0045
愛知県名古屋市千種区城山町
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 織田信秀
築城年 天文17年(1548)
主な改修者 織田信雄
主な城主 織田氏
位置 北緯35度10分3.0秒
東経136度57分35.0秒
【概要】
天文17年(1548年)に織田信秀(織田信長の父)が三河の松平氏や駿河の今川氏に備えて築城し、織田信勝(信行、信長の弟)を入城させ、織田信光(信秀の弟)の居城守山城とともに東方の防衛拠点となった。同城は標高43mの丘の上に築かれた東西約200m、南北約160mの城域を持つ周囲を二重堀で囲んだ城郭である。

那古野城(名古屋市中区)を居城としていた信秀は幼い嫡男信長に城を譲り、古渡城(名古屋市中区)を築いて移り住んだが、晩年に末森城に移り、この城で天文20年(1551)に死去したといわれる。

末森城主の信勝(信行)は弘治2年(1556)、織田家重臣の林秀貞、柴田勝家らとともに、信秀から家督を継いだ信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れて和睦。その後、弘治3年(1557)に再び謀反を企てたことで、清洲城において信長に謀殺された。信勝(信行)の死後、末森城は城主不在のまま放置されて、その後廃城になったが後に、小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が再び末森城を使用したという。

現在、本丸跡地付近が城山八幡宮の境内になっており、境内には末森城址の石碑が建っている。また、旧二の丸にはかつて愛知県が建設した旧昭和塾堂(現在は愛知学院大学に貸与されている)がある。城跡には、「三日月堀」とよばれた半月形の丸馬出などは失われてしまったが、空堀跡などの遺構が現存している。

名古屋市営地下鉄東山線覚王山駅から徒歩約5分。
(「日本の城がわかる事典」より)

【感想】
現在は、城山八幡宮になっており本丸の殆どが神域になっているためフェンスに囲まれており、遠目でしか見ることができない。それでもフェンス越しに本丸の石垣を垣間見ることができる。ただこれがいつの頃のものかは不明です。空堀も二重になっているのだが片方はこの神域の中にあるためはっきりと二つを同時に見ることができないのが残念である。


登城日 2019年11月16日(土)
LINK 末森城(尾張国)-Wikipedia
城主家紋 【木瓜】
(平氏の子孫か?)
織田氏家紋

                      

探訪

※城山八幡宮境内案内図より
【南西側より見た末森城跡】 【住宅街からの登城道】 【住宅街からの登城道】
【二ノ丸跡】
現在は旧昭和塾堂が建っているが耐震の問題なのかフェンスに囲まれ近くまで入れない。
【一の鳥居】 【空堀に架かる橋と二の鳥居】
【空堀跡】 【空堀跡】 【空堀に築かれたコンクリート製の滑り台】
【二の鳥居越しの空堀と橋】 【城址碑】 【本丸跡】
【城山八幡宮(本丸跡)】 【城山八幡宮拝殿(本丸跡)】 【本丸跡】
【本丸西側の通路】 【空堀跡】 【神域部分の本丸石垣と空堀】
【神域部分の本丸石垣】 【連理の木】




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