城名 | 岩崎城 | |||
住所 | 〒470-0131 愛知県日進市岩崎町市場67 |
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入場時間 | 開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30) 休館日 月曜日(祝日の場合は開館) 12月28日から1月4日 |
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入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし(現在は模擬天守 望楼型3層4階) | |||
築城主 | 不明(織田信秀?) | |||
築城年 | 室町時代末期 | |||
主な改修者 | 丹羽氏清 | |||
主な城主 | 織田氏、松平氏、丹羽氏 | |||
位置 | 北緯35度08分42.3秒 東経137度02分33.3秒 |
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【概要】 愛知県日進市にあった戦国時代の平山城。 丘の頂上に櫓台のある本丸があり、その北に二の丸、西に西曲輪、東に東曲輪が配置され、それぞれの曲輪の間に空堀が設けられていた。築城年、築城者は不明だが、勝幡城(愛知県愛西市)の城主だった織田信秀(織田信長の父)の時代に、同城の支城であったとする記録がある。 享禄2年(1529)、織田信秀に属した荒川頼宗が城将となっていた岩崎城を三河の岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が7000人の兵で攻め落とし、松平氏が支配した。しかし、天文4年(1535)に清康が陣中で家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こると、松平氏の勢力は岩崎城から退去した。代わって、本郷城(日進市)の丹羽氏清が同城に移り住み、以後、丹羽氏が4代にわたって岩崎城主となり、織田信長や徳川家康の時代を生き抜くことになる。 天正12年(1584)の豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、岩崎城主の丹羽氏次は家康に従い小牧に出陣し、城は弟の氏重が守った。しかし、氏重は岡崎城を奇襲するため南下した池田恒興らと戦って戦死し、岩崎城は落城した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、氏次は徳川方として参戦、家康から功績を認められ三河国伊保(現愛知県豊田市)1万石の大名として取り立てられた。このとき、岩崎城は廃城となった。その後、丹羽氏は譜代大名として存続し、播磨三草藩主として明治維新をむかえている。 現在、城跡は公園として整備され、3層の模擬天守(歴史博物館)が建てられている。この公園を整備するにあたって発掘調査が行われ、さまざまな遺構が発見されたが、保存のため埋め戻されている。しかし、曲輪、空堀、土塁、土橋や井戸跡などの遺構はよく残っている。二の丸跡は現在、庭園(二の丸庭園)が設けられているが、本来は馬出曲輪であった場所である。 (「日本の城がわかる事典」より) 【感想】 長久手の戦いの激戦地の一つであり、岩崎城の戦いが繰り広げられました。丹羽氏重配下約300名に対し池田恒興隊約7000名、その数の差は圧倒的で守る丹羽勢は全員が討死、城は落城となりましたが、ここで足止めされたことで中入りは失敗。長久手の戦いの鍵を握ったこの地を見て回れたのは感慨深いものでした。資料館に詳しい解説があるのも良かったです。 |
登城日 | 2019年11月16日(土) | ||
LINK | 岩崎城公式ウェブサイト | |||
岩崎城(尾張国)-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【木瓜】 (平氏の子孫か?) 織田氏家紋 |
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【檜扇】 (清和源氏一色氏後裔/良峰氏後裔?) 一色丹羽氏家紋 |
【駐車場の案内板】 | 【二ノ丸と西の曲輪間の城道(堀切?)】 | 【空堀】 |
【空堀】 | 【二ノ丸跡】 現在は二ノ丸庭園になっている |
【二ノ丸・土塁】 |
【土橋】 | 【空堀】 | 【櫓台跡】 |
【櫓台跡】 | 【岩崎城古墳・石室跡】 | 【本丸跡・岩崎城歴史記念館】 |
【模擬天守】 | 【本丸・井戸跡】 | 【本丸・隅櫓跡】 |
【本丸・隅櫓跡】 | 【模擬天守からの眺望】 | 【模擬門】 |
【長久手の戦いのモニュメント】 | 【庄九郎塚】 | 【古戦場公園】 |
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【古戦場縮景】 | 【史跡長久手古戦場碑】 | − |