城名 | 沓掛城(別名:沓懸城) | |||
住所 | 〒470-1101 愛知県豊明市沓掛町東本郷 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 豊明市指定史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | 応永年間(1394〜1428) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 近藤景春、簗田政綱 | |||
位置 | 北緯35度04分07.98秒 東経137度01分18.57秒 |
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【概要】 愛知県豊明市にあった平山城。 桶狭間の戦いの前夜に今川義元が入城した城として知られる。 緩やかな丘の上に築かれた総堀に囲まれた本丸、二の丸、諏訪曲輪などで構成される城郭である。東西288m、南北234mの城域を有し、当時の城郭の中では規模の大きな部類に入る。 正中2年(1325)に近藤宗光が築城したとも、応永年間(1394〜1427年)に藤原義行によって築城されたともいわれるが、築城の経緯についてはくわしいことはわかっていない。 ただし、後醍醐天皇の時代にすでにこの一帯の国人として近藤氏の名が見え、室町時代の早い時期に近藤氏が居城としたことは確かなようである。 戦国時代に入り、9代目の城主の近藤景春は松平広忠(徳川家康の父)の家臣となっていた。しかし、尾張の織田信秀の勢力が強くなり、しばしば三河に出兵を繰り返すようになると、近藤氏は信秀に従った。しかし、天文20年(1551)に信秀が死去して信長が跡を継ぐと、鳴海城の山口教継・教吉父子とともに織田氏から離反して今川義元の傘下に入った。 永禄3年(1560)、今川義元率いる2万5000といわれる軍勢が西上を開始し、同年5月18日に沓掛城に入った。義元はここで軍評定を開き、翌19日早朝、この城を出発した。このとき、義元は落馬し、輿に乗り換えたともいう。そして、運命の桶狭間で小勢の織田信長勢の奇襲に遭い、命を落とすことになった。このときの沓掛城主は近藤景春である。景春は桶狭間の戦いで義元が討ち取られたあと、沓掛城に戻り刈谷城を攻めるなどの反攻を行ったが、沓掛城は21日に織田勢に攻められて落城し、景春は討ち死にした。織田方の城となった沓掛城に入城したのは簗田政綱である。桶狭間の戦いで勲功一番と評価され、信長から沓掛3000貫文の領地とともに沓掛城を与えられた。 天正3年(1575)、政綱は加賀の天神山城主となったために、沓掛城には織田信照、次いで川口久助が入城し、城主となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、川口久助は西軍(豊臣方)に与し、戦後捕らえられて伊達政宗の預かりとなった。このとき、沓掛城は接収された後、廃城となった。 城跡は昭和56年(1981)から昭和61年(1986)にかけて豊明市による発掘調査が行われ、沓掛城址公園として整備され、現在に至っている。園内には本丸や曲輪、空堀などが良好な状態で現存し、当時の縄張りを残している。 (「日本の城がわかる事典」より) 【感想】 桶狭間の合戦前夜に入城した城ということだけあり、意外に広い縄張です。現在は公園として整備されていますが空堀などは良く残っています。残念なのは来ずに残る本丸の馬出部分がなくなり二ノ丸の虎口部分が変わってしまっている点でしょうか。 |
登城日 | 2019年11月17日(日) | ||
LINK | 沓掛城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【鹿角】 (藤原氏秀郷流) 近藤氏家紋 |
※沓掛村古城絵図 |
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【沓掛城説明碑】 | 【案内板】 | 【侍屋敷跡】 |
【侍屋敷土塁】 | 【本丸北西空堀】 | 【本丸木橋】 |
【本丸跡】 | 【本丸・西側空堀】 | 【諏訪曲輪跡】 |
【諏訪曲輪跡と木橋】 | 【諏訪曲輪跡】 | 【諏訪曲輪跡から見た本丸跡】 |
【本丸・井戸跡】 | 【大手門跡】 | 【城址碑と説明板】 |
【大手門から見た二ノ丸跡】 | 【二ノ丸虎口】 | 【大手門跡と空堀】 |
【東側空堀】 | 【東側空堀】 | 【東側空堀】 |