城名 東条城
住所 〒444-0501
愛知県西尾市吉良町駮馬城山地内
入場時間
入場料 無料
指定文化財
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 足利義氏
築城年 不明
主な改修者
主な城主 東条吉良氏、東条松平氏
位置 北緯34度50分6秒
東経137度5分26秒
登城日 2023年3月20日(月)
LINK 西尾観光協会〜古城公園(東条城跡)〜
東条城-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
三河吉良氏家紋
【概要】
鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。その三男吉継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。
以後、14代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点で南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴いた。その後裔が関東吉良氏である。
室町時代、応仁の乱(1467〜)では、10代義藤は山名宗全に味方して、細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わった。
12代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり松平一門の危機を救った。
家康は、桶狭間合戦以後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4年(1561)東条城を攻め、14代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。しかし、天下を掌握した家康は、13代義安の子・義定を旗本に取り立て吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。
落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立した。家忠の伯父松井忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられて周防守康親と名乗った。天正9年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。康親は天正11年に没したが、子孫は多く幕府の要職についた忠吉は関ケ原合戦後尾張清洲城主となるが慶長12年(1607)に没し、後嗣なく東条松平氏は断絶した。
また、ここには高名な文人・武人が多く訪れている。室町時代に歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。武人では、信長・家康も鷹狩りにことよせて訪れてる。
東条城は、天正18年(1590)に家康が関東に移った後廃城となった。それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。
(城内説明板による)

城跡は現在「古城公園」として整備され、平成4年(1992)に模擬櫓門と模擬櫓が復元されていたが、令和3年(2021)に老朽化のため取り壊された。


【感想】
櫓門と櫓が見たくて行ってみたのだが、まさか無くなっていると思いませんでした。
無くなってしまうと本丸虎口がスッキリしてしまって物足りなく感じますが、坂虎口が良くわかります。
城自体はこじんまりとした感じですが、曲輪が良く配置されています。

                      

探訪
【東条城跡の指標】 【登城道の冠木門】
これだけは残ったようだが、この登城道は本来の道ではないようです。左は腰曲輪。
【三の丸跡】
【二の丸跡】
三の丸から一段高くなった場所にあり、現在は八幡社が建っている。
【二の丸跡の八幡社】 【二の丸土塁】
【二の丸土塁】 【本丸虎口】
この場所に模擬櫓門が建っていた。
【本丸虎口(本丸側より)】
【本丸虎口(本丸側より)】 【模擬櫓跡】 【城址碑】
【本丸跡】 【本丸下の腰曲輪】 【隅櫓跡】
本丸東北隅に位置し、現在も土を盛り上げた形状がわずかに残っています。
【虎口跡(搦手門跡)】
この辺りに搦手門があったと思われます今は門に通じる道は無くなっています。
【本丸跡】
観光〜吉良町(椿屋敷跡・岡山陣屋跡・華蔵寺・花岳寺)〜
【椿屋敷跡】
吉良義安の妻俊継尼(家康の伯母)が、遺児義定を連れて居を構え、椿屋敷と呼ばれ、吉良家再興の足掛かりとなった地である。
【岡山陣屋跡】
徳川家康からこの地に二百石、鳥羽に三百石拝領した吉良義定は、ここに館を建て、以後義弥(よしみつ)、義冬、義央(よしひさ)と続いた。
【吉良上野介像】
尾崎士郎「吉良の男」の文章が刻まれている。
【片岡山 華蔵寺】
高家吉良家菩提寺
【石段】
危険なので右の坂道で上がります。
【華蔵寺本堂】
裏庭は小堀遠州が手がけた庭園があるそうです。
【高家吉良家の墓】 【歴代高家吉良家の墓】 【切支丹灯篭】
吉良家の中に切支丹の人がいたのでしょうか?
【石塔】 【花岳寺 東条吉良家の墓】




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