城名 | 小倉城(別名:勝山城、指月城) | |||
住所 | 〒803-0813 福岡県北九州市小倉北区城内2番1号 |
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入場時間 | 開館時間 4月〜10月:午前9時〜午後6時 11月〜3月:午前9時=午後5時 (入館は30分前まで) 年中無休 |
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入場料 |
一般350円、中高生200円、小学生100円
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指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 輪郭式平城 | |||
天守構造 | 連結式層塔型4重5階(1609年築 非現存) (1959年再 コンクリート造復興) |
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築城主 | 細川忠興 | |||
築城年 | 慶長7年(1602) | |||
主な改修者 | 小笠原氏 | |||
主な城主 | 細川氏、小笠原氏 | |||
位置 | 北緯33度53分4.0秒 東経130度52分27.32秒 |
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【沿革】 関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。 この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。小笠原忠苗の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。明治10年の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征しました。その後は、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。太平洋戦争後は米国に接収されましたが、1957年に解除され、1959年市民の熱望によって天守閣が再建されました。この天守閣は「唐造り(からづくり)の天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階が四階よりも大きくなっているのが特徴的です。また、城の石垣は切り石を使わない野面積みで、素朴ながらも豪快な風情にあふれています。 【感想】 唐造りの天守で復興天守ではありますが、最上階の破風以外は本来は存在しなかった破風ですなのが残念です。 石垣や門跡も残っており見どころはあります。特に八坂神社から本丸へ入る多門口門辺りは良かったです。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
小倉城天守受付 (天守工事期間中は小倉城庭園受付) |
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登城日 | 一回目:2009年5月23日(土) 二回目:2018年10月26日(金) |
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LINK | 小倉城HP | |||
小倉城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【九曜】 (清和源氏足利氏流) 細川家(上守護家)家紋 |
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【三階菱】 (清和源氏義光流) (府中)小笠原家家紋 |
【常盤橋】 江戸時代初期、東曲輪(おもに町人が生活していた地域)と西曲輪(おもに武士が生活していたエリア)を結ぶ重要な橋であった。 |
【紫川対岸からの天守】 左側に写る橋は鴎外橋。 |
【紫川対岸からの天守(ズーム)】 |
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【小倉城庭園からの天守】 回遊式の庭園。 |
【小倉城庭園】 書院は、広縁の一部が池に張り出す「懸造り」になっている。 |
【大手先門付近空の天守】 | |
【大手先門跡】 | 【小倉城北東方向から見た天守】 天守は下層より張り出した形式の唐造りとなっている。 本来、最上部以外の破風はなかった。 |
【八坂神社】 小倉城北ノ丸跡に建つ。 |
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【八坂神社の祖霊殿】 櫓風に作られてはいるが史実にはない。 |
【本丸と北ノ丸の間の空掘】 | 【八坂神社・山門】 | |
【八坂神社拝殿】 | 【八坂神社拝殿にあった提灯】 京都の八坂神社の神紋は八坂造りと呼ばれる「五瓜に唐花紋(織田木瓜に酷似)」ですが、小倉では「中結び祇園守」となっている。この二つは結びつきがないのであろうか? ちなみに「中結び祇園守」は立花家の家紋でもある。 |
【北東側堀】 三階櫓が見えますが、八坂神社の祖霊殿です。 |
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【北西側堀】 石垣の上に見える塀は八坂神社の塀。 |
【八坂神社・神門】 | 【北ノ丸と二ノ丸の間の堀】 | |
【多門口門枡形】 | 【多門口門跡】 | 【着見櫓】 現在は糠蔵という漬物屋となっている。 昔はここから沖からの通航船を監視した櫓です。 |
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【復原大砲】 |
【本丸より天守】 | 【迎え虎】 雄虎 「千客万来」 |
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【城内2階御座所】 島原の乱出陣前夜の作戦会議の様子。 |
【小倉城庭園全景】 |
【送り虎】 雌虎 「麗虎招福」 |
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【本丸にあった第十二師団司令部跡】 |
【第十二師団司令部正門跡】 |
【本丸西側にあった野戦重歩兵第二旅団司令部跡】 |
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【鉄門跡】 石垣が赤色に変色しているのは落城時に焼けたため。 |
【ニノ丸井戸跡】 本丸からも取水できるようになっている。 |
【ニノ丸井戸跡】 | |
【西ノ口門跡】 | 【槻門跡】 | 【槻門礎石】 | |
【白州灯台岩村翁記念塔】 二ノ丸南東側にある。 小倉藩沖の「白州」と呼ばれていた暗礁地帯に私財をなげうって灯台を建てた岩村翁の記念塔。本人は灯台の点灯する一年前に亡くなり見ることができませんでした。 |
【大手門枡形】 | 【大手門跡】 | |
【虎ノ門跡】 | 【北九州市役所展望室から天守】 | 【リバーウォーク北九州から見た天守】 |