城名 | 浦戸城 | |||
住所 | 〒781-0262 高知県高知市浦戸城山830-25 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 高知県史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | 三重(非現存) | |||
築城主 | 長宗我部元親 | |||
築城年 | 天正19年(1591) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 長宗我部氏、山内氏 | |||
位置 | 北緯33度29分49.93秒 東経133度34分19.15秒 |
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【沿革】 長曽我部元親が父祖伝来の岡豊城を廃し、大高坂(現高知城)に新城を築き始めるが治水工事がうまくいかず、浦戸へ城地を替え、浦戸城を完成させた。 以後10年を経って、関ヶ原合戦で西軍についたため長曽我部氏は滅び、山内一豊が入城したのはその翌年であった。 その時、長曽我部氏の遺臣たちが城の引き渡しを拒み、一領具足達は土佐半国、せめて土佐2郡だけでも賜りたいと城の明け渡しを拒んだ。50日にわたって籠城したが長宗我部家臣の桑名弥次兵衛らの策略で中から開けられた。一領具足達は城門に押し迫ったが敗れ、273人が討ち死にした。 【感想】 城址は桂浜という観光地化のせいで、遺構がほとんど無く復原された石垣や石碑が残るだけなのは残念でした。場所的には城の両脇が海で岬の奥にあるこの場所は城下町などが発展できる場所とは思えない。海運はあるが経済的に良い場所とは思えないので城としての機能のみだけを考え築城したのだろうか、織豊時代の城としては少し古臭い感じがしないでもありませんでした。 |
登城日 | 2009年7月20日(月) | ||
LINK | 高知県立坂本龍馬記念館 | |||
浦戸城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【折七つ酢漿草】 (泰氏流) 長宗我部家家紋 |
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【丸に三つ柏】 (藤原北家秀郷流) 山内家家紋 |
【浦戸城碑】 国民宿舎桂浜荘、県立坂本龍馬記念館の駐車場に建つ。ただし車の影になっている場合がある。 |
【石垣】 発掘された石を積み直した石垣。国民宿舎桂浜荘、県立坂本龍馬記念館の駐車場にある。 |
【移築復原石垣】 国民宿舎桂浜荘を建てるときに発掘された石垣。国民宿舎桂浜荘の奥にある。 |
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【天守閣登城道】 浦土城碑の隣にある。 |
【天守跡】 現在地は、浦戸城詰ノ段北東隅に位置する、中世の山城としては珍しい天守跡である。天守跡は詰ノ段よりも7m高く、いびつな台形である。 |
【浦戸城天守説明板】 残念なことに壊されていて読むことができない。 |
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【桂浜】 | 【坂本龍馬像】 | 【浦戸湾に停泊中のイージス艦】 | |
【高知灯台】 | 【桂浜】 | 【浦戸城址全景】 | |
【一領具足供養碑と六地蔵】 浦戸城を明け渡しの際に273名の一領具足が討たれた。首は大阪に送られ胴体石丸塚としてここに葬られた。 |
【一領具足供養碑と六地蔵】 | 【兵士の塚】 慶長5年(1600)12月浦戸一揆の戦死した長宗我部氏の家臣を祀ったものと古くから伝えられてきたものである。 |
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【長宗我部元親公の墓所へ続く階段】 | 【長宗我部元親墓所碑】 | 【長宗我部元親の墓】 |