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※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。
城名 日隈城(別名:隈城、亀翁城)
住所 〒877-0045
大分県日田市亀山町
入場時間
入場料
指定文化財 なし
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 望楼式5層6階(内地下一階) (1596年築・非現存)
築城主 宮城豊盛
築城年 文禄3年(1594)
主な改修者 毛利高政
主な城主 毛利氏
位置 北緯33度18分52.02秒
東経130度55分43.13秒
地図 本丸跡・日隈神社
二ノ丸跡
三ノ丸跡
大手門跡
丹後丸跡
【歴史】
文禄元年(1592)、朝鮮出兵時の失態により、改易処分となった豊後当主・大友吉統に代わり、蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた、宮城豊盛によって文禄3年(1594)に日田三丘の一つ日隈山に城は築いた。これが日隈城である。

当時、日隈山一帯を境内としていた曹洞宗寺院である真光寺を麓に移して築かれ、商家や市を田島村(現日田市大原八幡宮付近)から竹田村(現日田市隈町付近)に移し、城下町を形成した。

慶長元年(1596)には毛利高政が2万石(6万石とも)で移封され、城の大改修を行い望楼式5層6階の天守、3層の月見櫓、丹後丸櫓、二ノ丸門櫓、北三ノ丸櫓、三本丸大門などが増築され城下には二重の堀と土塁が廻らされたといわれている。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに際し、東軍勝利を知った後も、当時の中津領主であった黒田如水は九州の西軍方を攻め続けた。如水の重臣・栗山備後は、毛利高政の角牟礼城(現玖珠郡玖珠町)と日隈城に進軍する。しかし、すでに高政が東軍に寝返っていたことから、難なく和議が成立。城は開け渡され、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。

慶長6年(1601)、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封となる。城は再び毛利高政の預かりとなるが、翌年、毛利高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなる。

元和2年(1616)以降、江戸幕府発布の一国一城令により廃城。破城は寛永年間(1624〜1645)とされるが、貞享元年(1683)松平直矩時代の日田陣屋役宅増設のとき「永山、隈居城…」と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は明らかではない。



【感想】
三隈川の畔からの景色は最高で、沈下橋を渡り、搦手側より登城、城の縄張はしっかり残っている。
全体的に小ぶりなのでこの本丸に5層6階もの天守閣があったといわれると首をかしげてしまう。それも本丸には天守の石垣すら残っていないのであるから。
櫓も結構あったようだが今は見る影もない。唯一はっきりとした遺構は大手門の枡形虎口の石垣です。


登城日 2013年9月29日(日)
LINK 日隈城-Wikipedia
城主家紋 【丸に矢筈】
(佐々木氏流/藤原氏)
毛利(森)氏家紋

                      

探訪
【日隈城と三隈川】 【搦手側に架かる沈下橋】 【搦手側虎口】
だがここは後から築かれたもののようです。
 
【三ノ丸虎口】 【二ノ丸石垣】
大手虎口の石材と異なり丸石を使用しているので昔のものとは違うかもしれない。
【二ノ丸跡】
【二ノ丸跡】 【本丸跡】 【本丸跡に建つ日隈神社拝殿】
【日隈城址碑】
この拝殿左奥辺りが天守跡とされている。
【三ノ丸跡】 【大手枡形虎口】
【大手門跡】
大手門下が丹後丸跡になる。
【三隈川】 【日隈城全景】
宿泊した宿「山陽館」客室より。
ジャンル:居酒屋
店名: 華大和
住所: 大分県日田市隈2-2-5
TEL: 0973-22-1455
営業時間:18:00〜23:00
定休日: 不定休

日田温泉程近くにあり、飲み屋街まで歩くのが面倒で見つけたお店。カウンター席もあるので一人でも入りやすい。メニューも日田の味を楽しめます。

写真:左上 刺し盛(タコ、カレイ、サンマ、ハマチ)
  :左下 シロナガスクジラの塩焼き
  :右上 鮎の塩焼き
  :右下 おにぎり




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